5年間という長い道のり—でも、息子は少しずつ前に進んでいた
小学1年の夏休み明けから始まった、息子の不登校。
発達障がい者支援センターに通い始めて。
心療内科に通い始めて。
特別児童扶養手当を受給するようになって。
僕たちは、色々な支援を受けながら、息子と一緒に歩んできました。
でも、すぐに状況が大きく変わることはありませんでした。
毎日、妻と一緒に学校に行く息子。
教室に入れたり、入れなかったり。
泣きながら過ごす日々が続きました。
別室登校。
校長・教頭と過ごす日々。
支援学級への転籍。
そして、ほとんど普通級で過ごせるようになるまで。
小学1年から、小学5年まで。
5年間の不登校。
この記事では、息子の5年間不登校の全記録について書きます。
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- 精神科病院で作業療法士19年目
- 現在、精神科デイケアセンター長
- 息子(長男)の5年間の不登校(小1~小5)で、親である僕と妻が”どのような悩みを抱き”、”対立し”、”息子にヒドイことをしてきたか”その経過を発信
- 小学1年から小学5年までの5年間の変化
- 別室登校、支援学級への転籍の経緯
- 少しずつ前に進んでいった息子の姿
- 僕たち親の気持ちの変化
- 5年間を振り返って思うこと
小学1年・2年—毎日が苦しかった時期

妻と一緒に学校に行く日々
小学1年の夏休み明けから、息子の行き渋りが激しくなりました。
夏休み中、児童クラブに行くときに泣くことが増えていました。
そして、2学期が始まると、集団登校の集合場所でバイバイができなくなりました。
車で学校まで送るようになりましたが、駐車場から降りられない。
先生が車まで迎えに来てくれて、半ば強引に教室に連れて行ってもらっていました。
しかし、それから1ヵ月もしない頃、玄関先で「行きたくない」と泣きわめき、怯えているように手足が震えるようになりました。
僕は、ある朝、仕事に間に合わなくなって、息子に向かって大声で叫んでしまいました。
精神科OTパパ「お前が学校に行かなかったら、俺も仕事に行けないだろう!」
その時の長男の「ごめんね、ごめんね」と泣きながら謝る姿が、今でも忘れられません。
この頃から、妻が息子と一緒に学校に行くようになりました。
車で登校し、一緒に教室まで行く。
駐車場から教室まで、2時間かかることもありました。
廊下を進んでは戻って、を繰り返して。
妻は、息子と一緒に教室で授業を受け、昼ごはんを食べ、掃除までして下校していました。
2週間ほどたつと、妻は長男のクラスメイトから「先生」と呼ばれるまでになりました。
小学2年になっても、状況は変わりませんでした。
妻が一緒に教室に入ることはしないでおこうと、学校側が妻のために空いている部屋を用意してくれました。
息子は、妻のいる部屋から教室に行こうと何度もチャレンジしていました。
廊下を進んでは戻って、を繰り返し、教室まで2時間以上かかることもありました。
教室を覗いては妻のいる部屋に戻って、を繰り返していました。
教室に入れない息子
息子は、教室に入ることがかなり不安なようでした。
入ろうとすると、不安が強くなります。
でも、教室に入れた後は、しばらくすると落ち着いて、友達とも話をしていました。
先生からは、「教室に入れたら、友達とも遊んでいます」と報告されていました。
でも、朝の教室に入るまでが、とても辛そうでした。
息子は、毎朝泣いていました。



「学校、行きたくない!」
でも、「今日は学校休む?」と聞いても、息子は首を横に振ります。



「行く!」
そう言います。
泣きながらでも、「行く」と言います。
息子は、「みんなが学校に行っている時に自分は休んでいる状況の方が辛い」と言っていました。
だから学校には行くけど、教室に入るのが怖い。
その矛盾の中で、息子は苦しんでいました。
僕たち親も限界だった
妻は、毎日息子と一緒に学校に行っていました。
正社員からパートに変更しましたが、ほとんど仕事へは行けませんでした。
有給も底をつき、欠勤する日がほとんどでした。
妻は、学校から帰ると、泣いていることが多かったです。



「何でこんなことになったんだろう…」
「どうしたらいいんだろう…」
僕も、毎日胃薬を飲んでいました。
朝起きると、胃が痛くなっていました。
息子が寝た後、妻と二人で泣きながら話し合いました。



「このままでいいのかな…」



「何か変えなきゃいけないんじゃないか…」
でも、答えは出ませんでした。
発達障がい者支援センターと心療内科には、月に1回通っていました。
相談はしていましたが、すぐに状況が変わるわけではありませんでした。
小学1年・2年は、本当に苦しい時期でした。
息子も、僕たち親も、毎日が苦しかったです。
家の中はどんよりした雰囲気で、毎日朝を迎えるのが憂鬱でした。
でも、諦めませんでした。
息子のために、何ができるか。
それを考え続けました。
小学3年—別室登校が始まった
校長・教頭が用意してくれた会議室
小学3年になり、担任が変わりました。
正直、今回の担任には落胆させられました。
2年生の時の担任は、僕たちと一緒に考え、息子への対応も一生懸命行ってくれていました。
たまに教室に入れるようになったのも、息子は2年生の担任のことが好きだったし、担任のおかげもかなりあると思っていました。
しかし3年生の担任は、心無い言葉を息子に浴びせることがありました。
クラスの皆の前で、息子が「皆と同じことを出来ていない」と非難したこともありました。
担任には相談する気になれず、校長・教頭先生を中心に学校生活の相談をしていました。
校長は、学校内での息子の安心できる居場所を作れたらと、日頃使わない会議室を用意してくれました。
毎朝、息子は学校に行く前は不安でいっぱいの表情でした。
学校に着くと泣きながら先生に連れられ会議室に行っていました。
校長や教頭、生活指導の先生などが交代しながら息子と勉強をしてくれたりと対応をしてくれていました。
給食も会議室で、いずれかの先生と2人で食べていました。
このころから、息子は妻と離れることができてきました。
妻は、学校まで送り届けるだけで、一緒に学校にいる必要がなくなってきました。
それは、僕たちにとっても、大きな変化でした。
「自分だけ違う」という息子の負い目
会議室を準備してくれて、皆の目が届かない場所なので安心感はあったようです。
でも、息子は「自分だけ違う場所にいる」という感覚がありました。
負い目を感じていました。



「みんなは教室にいるのに、僕だけ会議室…」
そんな思いがあったと思います。
ある日、息子が言いました。



「支援学級に行きたい」
「あそこなら行ける気がする!」
僕たちは、その言葉を聞いて、学校側と協議をしました。
でも、支援学級を利用するにあたり適当な診断名がついていないということで、支援学級には通うことができませんでした。
少し希望の光を感じていた僕たちは、非常にがっかりしました。
息子も、がっかりしていました。



「やっぱりダメなんだ…」
そう言っていました。
僕たちは、どうにか今の状況を打破できないかと、夫婦で色々と話し合い、情報を漁っていました。
フリースクールにも、2か所見学に行きました。
息子は、「先生は優しそうで雰囲気は悪くはない」と言っていましたが、「今の小学校の友たちと過ごしたい」という想いもあり、フリースクールは見学のみで通うことはありませんでした。
それでも、少しずつ変化が
小学3年の間、息子は会議室で過ごしていました。
教室には、ほとんど入れませんでした。
でも、少しずつ変化もありました。
妻と離れることができるようになったこと。
それは、大きな成長でした。
朝、泣くことは相変わらずありましたが、学校に着けば、先生と一緒に会議室に行けるようになりました。
妻は、送り届けたら帰ることができました。
それで、妻も少しずつパートに行けるようになってきました。
週に2回か3回ではありましたが、それでも以前よりは行けるようになりました。
僕たちは、「少しずつだけど、前に進んでいる」と思いました。
焦らず、息子のペースで。
心療内科の先生が言ってくれた言葉を、思い出していました。
「焦らなくていい」
「この子のペースを大切に」
その言葉を信じて、僕たちは待ちました。
息子が、自分で前に進めるようになるまで。
小学4年—支援学級への転籍


「支援学級に行きたい」という息子の言葉
小学4年になってしばらくして、少しだけ前向きに状況が動き出しました。
息子は以前から「支援学級に行きたい」「あそこなら行ける気がする」と何度も言っていました。
小学3年の時に一度申請しましたが、適当な診断名がついていないということで、通うことができませんでした。
でも、息子の気持ちは変わっていませんでした。



「支援学級に行きたい!」
その言葉を、何度も聞きました。
僕たちは、もう一度学校側と話し合いました。
そして、心療内科の先生に意見書を書いてもらいました。
先生は、快く引き受けてくれました。
「お子さんの状態を見ていると、支援学級での学習が適切だと思います」
そう言って、意見書を書いてくれました。
ようやく認められた転籍
何度も学校側と話し合い、心療内科の先生の意見書も提出して。
ようやく、支援学級(情緒)に通えることが認められました。
その知らせを聞いた時、僕たちは本当に嬉しかったです。
息子も、嬉しそうでした。



「やっと行ける!」
そう言っていました。
小学4年の途中から、息子は支援学級に通い始めました。
相変わらず妻が学校まで車で送り迎えをしていました。
登校するときには泣くことも、まだありました。
でも、徐々に泣くことは減っていきました。
支援学級には他の友達も多くいるため、「自分だけが特別」な状況ではなくなりました。
それが、息子の気持ちを楽にさせたのかもしれません。
支援学級に入ってからは、まずは全ての時間を支援学級で過ごすことから始めました。
先生から「行けそうな時だけ普通級に行ってみなさい」と話されていましたが、最初は普通級に行けることはなく、支援学級で過ごしていました。
でも、それでよかったと思います。
息子には、「自分の居場所」が必要でした。
支援学級が、その居場所になりました。
「自分の居場所」ができた
支援学級に通い始めてから、息子の様子が変わっていきました。
前日から次の日の学校に対する不安を表出することが、ほとんど無くなりました。
毎朝、妻の車から降りる時に泣く頻度も、徐々に減っていきました。
学校内で皆と同じ自分の居場所があるという、息子の気持ち。
それが、親としてホッとしたことでもありました。
息子は、支援学級の友達とも仲良くなりました。
支援学級の先生のことも、好きになりました。



「今日は○○くんと遊んだよ」
「先生が、面白いこと言ってた」
学校の話を、嬉しそうにすることが増えてきました。
小学1年・2年の頃は、学校の話をすることはほとんどありませんでした。
「学校どうだった?」と聞いても、「わかんない」としか答えませんでした。
でも、今は違います。
学校の話を、自分からしてくれるようになりました。
それは、息子にとって、学校が「楽しい場所」に少しずつ変わっていったということだと思います。
僕たちは、本当に嬉しかったです。



「支援学級に行けて、良かったね!」



「うん。本当に良かった!」
息子にとって、支援学級は「自分の居場所」になりました。
それが、息子を変えてくれました。
小学5年—普通級に戻り始めた
少しずつ普通級の授業に参加
小学5年になっても、最初は全ての時間、支援学級で過ごしていました。
4年生から「毎日泣きながら行く」「前の日から不安な状態になる」「学校に自分の居場所がない」という状況は徐々になくなっていたため、5年生への進級は今までで一番緊張感は少なく、希望を持って望むことができました。
そして、少しずつ変化が起きました。
発達障がい者支援センターの先生と支援学級の先生とで、息子と話をしてくれました。
「行けそうなときは普通級に行ってみる」
「無理そうになったら、いつでも戻ってきて良い」
そういう約束をしました。
息子も、頑張るエネルギーが貯まってきたのか、チャレンジしていきました。
最初は、体育の時間だけ。
次は、理科の時間も。
というふうに、徐々に普通級に行けるようになってきました。
息子も、学校でできることが増えていくことで、帰ってから嬉しそうに学校の話をすることも増えてきました。



「今日は理科と体育は参加できたよ」
「今日は道徳の時間も行けた」
そんな報告を、してくれるようになりました。
僕たちは、その話を聞くのが楽しみでした。
息子が、少しずつ前に進んでいる。
それが、実感できました。
そして、学校以外のことでも変化がありました。
以前通っていた学習塾に通い出しました。
加えて、息子から「サッカーが習いたい」と言ってきました。
合計週に4回の習い事をこなせるまでになっていました。
小学1年の時には、習い事も全て辞めていました。
それが、今は週4回も通えるようになっている。
息子の成長を、強く感じました。
朝泣くことがほとんどなくなった
小学5年の秋頃には、朝泣くことはほとんど見られなくなりました。
今までずっと、朝は泣いていました。



「学校、行きたくない…」
そう言いながら泣いていました。
でも、今は違います。
朝、起きて、自分で準備をして、学校に行く。
それが、当たり前にできるようになりました。
妻も、嬉しそうでした。



「今朝も泣かなかったね」
僕も、嬉しかったです。
息子が、朝泣かずに学校に行ける。
それが、こんなに嬉しいことだとは思いませんでした。
小学1年・2年の頃は、毎朝泣く息子を見るのが辛かったです。
でも、今は違います。
息子が、笑顔で学校に行く姿を見られる。
それが、何よりも嬉しかったです。
「友達と歩いて行ってみる」と言った日
小学5年の冬。
ある日、息子が言いました。



「友達と歩いて行ってみる!」
その言葉を聞いた時、僕は驚きました。
今まで、ずっと車で送り迎えをしてきました。
小学1年の秋から、ずっと。
それが、「友達と歩いて行ってみる」と言った。
自分から、前向きな発言ができるようになったこと。
それが、とても嬉しかったです。
妻も、驚いていました。
でも、すぐに笑顔になりました。



「いいよ。行っておいで」
それから、僕が朝の犬の散歩に出かけるのと一緒に準備をして家を出て、友達が登校していたら歩いて一緒に行くことができるようになりました。
友達の登校している姿が見えなかったら、僕と一緒に家に引き返し、車で送りました。
友達がいなければ車で送ってもらえるという安心材料があったのも良かったのだろうと思います。
また、学校の帰りも必ず車で学校に迎えには行っていましたが、「今日は友達と歩いて帰る」ということもあり、徐々に登下校を自分で行えるようになりました。
その時その場で自分で決める。
それが、息子にとって良かったのだと思います。
小学5年の終わり頃には、朝泣くことはほとんど見られなくなっていました。
登校時に友達がいなくても一人で登校ができるようになり、学校へ行く不安のために親が送迎をすることは無くなりました。
習い事も、順調に通うことができていました。
息子は、大きく成長していました。
そして、この頃から僕たち夫婦は、経済的な問題もあり、妻が正社員に戻ることを計画し始めました。
5年間を振り返って—息子も、僕たち親も、成長した


息子の「学校に行きたい」を支え続けてよかった
5年間。
小学1年の夏休み明けから、小学5年の終わりまで。
長い道のりでした。
毎日が苦しかった時期もありました。
「このままでいいのか」と悩んだ日々もありました。
「もう無理かもしれない」と思ったこともありました。
でも、僕たちは息子の「学校に行きたい」という気持ちを支え続けました。
息子は、何度も言っていました。



「みんなが学校に行っている時に自分は休んでいる状況の方が辛い」
だから、泣きながらでも「行く」と言っていました。
もし、息子が「学校にはもう行きたくない」「家で過ごしたい」と言っていたら、僕たちはその選択を尊重したと思います。
学校だけが全てではありません。
フリースクールという選択肢もあります。
家で学ぶという選択肢もあります。
でも、息子は「学校に行きたい」と言い続けました。
だから、僕たちはその気持ちを支え続けました。
発達障がい者支援センターに通って。
心療内科に通って。
学校と何度も話し合って。
支援学級に転籍して。
一つ一つ、積み重ねてきました。
そして、息子は少しずつ、自分が望む形で学校に通えるようになっていきました。
息子の「学校に行きたい」を支え続けてよかった。
今、心からそう思います。
息子は、本当に頑張りました。
そして、僕たち親も、頑張りました。
息子の選択を支え続けてよかった。
それが、今の僕たちの気持ちです。
たくさんの人に支えられた
5年間を振り返ると、たくさんの人に支えられてきたことを感じます。
発達障がい者支援センターの担当スタッフ。
心療内科の担当医とカウンセラー。
学校の先生方。
校長・教頭先生。
支援学級の先生。
児童クラブの先生。
そして、妻の職場の方々。
たくさんの人が、僕たちを支えてくれました。
僕たちだけでは、ここまで来られませんでした。
息子も、僕たち親も。
周りの人たちの支えがあったからこそ、前に進めました。
発達障がい者支援センターの担当スタッフは、息子の話を聞いてくれて、息子の心を軽くしてくれました。
心療内科の先生は、「焦らなくていい」「この子のペースを大切に」と言ってくれて、僕たち親の心を軽くしてくれました。
学校の先生方は、息子のために会議室を用意してくれたり、支援学級への転籍を認めてくれたりと、色々な対応をしてくれました。
妻の職場の方々は、妻が予定通り勤務できない状況を許してくれて、理解を示してくれました。
たくさんの人に支えられて、僕たちはここまで来られました。
本当に、感謝しています。
もし、今この記事を読んでくださっている方の中で、同じ状況にいる方がいたら。
一人で抱え込まないでください。
周りの人に、助けを求めてください。
専門機関に、相談してください。
学校に、話してください。
たくさんの人が、あなたとお子さんを支えてくれます。
僕たちも、たくさんの人に支えられて、前に進むことができました。
それぞれの子どもに、それぞれの道がある
5年間の日々。
長い道のりでした。
小学1年・2年の頃は、「いつまで続くんだろう」と思っていました。
先が見えない不安がありました。
でも、息子は少しずつ前に進んでいきました。
支援学級に転籍して。
普通級に戻り始めて。
友達と歩いて登校できるようになって。
少しずつ、少しずつ。
そして、小学5年の終わり頃には、ほとんど普通級で過ごせるようになりました。
朝泣くこともなくなりました。
登下校も自分でできるようになりました。
息子が望んでいた形で、学校に通えるようになりました。
でも、これは僕たちの家族の道です。
全ての子どもが、同じ道を歩むわけではありません。
学校に戻ることを選ぶ子もいます。
フリースクールを選ぶ子もいます。
家で学ぶことを選ぶ子もいます。
どの道も、正しい道です。
大切なのは、子ども自身が何を望んでいるか。
そして、その子にとって何が一番いいのか。
それを、親が一緒に考えること。
そして、その選択を支えること。
僕たちの息子は、「学校に行きたい」と言い続けました。
だから、僕たちはその選択を支えました。
もし、息子が違う選択をしていたら、僕たちはその選択を支えたと思います。
それぞれの子どもに、それぞれの道があります。
もし、今この記事を読んでくださっている方の中で、お子さんの進む道に悩んでいる方がいたら。
お子さんの気持ちを、一番大切にしてください。
そして、その選択を支えてあげてください。
学校に戻ることだけが、正解ではありません。
お子さんが望む道が、その子にとっての正解です。
僕たちも、息子が望む道を支え続けました。
そして、息子は前に進みました。
あなたのお子さんも、必ず前に進みます。
どんな道を選んでも、前に進んでいきます。
【まとめ】5年間の全記録—今、同じ状況にいる方へ
- 小1:行き渋り・母同伴登校開始
- 小2:教室に入れず別室利用
- 小3:会議室での別室登校
- 小4:支援学級へ転籍
- 小5:普通級へ徐々に復帰
小学1年の夏休み明けから始まった、息子の不登校。
5年間という長い道のりでした。
小学1年・2年は、本当に苦しい時期でした。
妻が毎日息子と一緒に学校に行って。
教室に入るまで2時間かかって。
息子も、僕たち親も、毎日が苦しかったです。
小学3年になって、別室登校が始まりました。
校長・教頭が会議室を用意してくれて。
息子は妻と離れることができるようになりました。
でも、「自分だけ違う場所にいる」という負い目も感じていました。
小学4年になって、支援学級に転籍できました。
息子が何度も「行きたい」と言っていた支援学級。
そこで、息子は「自分の居場所」を見つけました。
朝泣くことも、徐々に減っていきました。
小学5年になって、少しずつ普通級に戻り始めました。
体育、理科、道徳。
一つずつ、普通級で参加できる授業が増えていきました。
そして、「友達と歩いて行ってみる」と自分から言った日。
僕たちは、息子の成長を強く感じました。
息子の「学校に行きたい」という気持ちを支え続けてよかった。
たくさんの人に支えられた。
それぞれの子どもに、それぞれの道がある。
もし、今この記事を読んでくださっている方の中で、同じ状況にいる方がいたら。
一人で抱え込まないでください。
周りの人に、助けを求めてください。
お子さんの気持ちを、一番大切にしてください。
学校に戻ることだけが、正解ではありません。
フリースクールという選択肢もあります。
家で学ぶという選択肢もあります。
お子さんが望む道が、その子にとっての正解です。
そして、どんな道を選んでも、お子さんは必ず前に進みます。
焦らなくていい。
お子さんのペースを大切に。
心療内科の先生が言ってくれた言葉を、僕は今でも大切にしています。
あなたとお子さんにとっての、最善の道が見つかることを願っています。
※この記事は、一つの家族の体験談です。医療的な助言や指導ではありません。お子さんの状況に応じて、必要な場合は専門機関(スクールカウンセラー、教育相談、医療機関など)にご相談ください。


【次回予告】
小学5年の終わり頃、息子はほとんど普通級で過ごせるようになっていました。
朝泣くこともなくなり、登下校も自分でできるようになりました。
でも、小学2年の春、息子が初めて「支援学級に行きたい」と言った時のことを、僕は今でも覚えています。
その時は、通うことができませんでした。
「支援学級を利用するにあたり適当な診断名がついていない」
そう言われました。
息子も、僕たちも、がっかりしました。



「やっぱりダメなんだ…」
息子がそう言った時の表情を、今でも忘れられません。
なぜ、あの時は通えなかったのか。
なぜ、小学4年になって通えるようになったのか。
次回は、「小2春:支援学級に行きたいと言った息子、でも通えなかった理由」について書きます。
▼次の記事
小2春:支援学級に行きたいと言った息子、でも通えなかった理由
▼前回の記事
特別児童扶養手当の受給
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